2009年07月01日

船団を出して浪速国に至る

戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

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5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。

名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。


2009年06月13日

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空のエネルギー」等がそうとされる。

ダークエネルギーとは、宇宙全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギーである。宇宙論研究者のマイケル・ターナーが最初に作った言葉であるとされる。現在観測されている宇宙の加速膨張や、宇宙の大半の質量が正体不明であるという観測事実を説明するために、宇宙論の標準的な理論(ロバートソン-ウォーカー計量)にダークエネルギーを加えるのが現在最もポピュラーな手法である。この新しい宇宙論の標準モデルをΛ-CDMモデルと呼ぶ。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数とクインテセンス (quintessence) がある。前者は静的であり後者は動的である。この二つを区別するためには、宇宙膨張を高い精度で測定し、膨張速度が時間とともにどのように変化しているかを調べる必要がある。このような高精度の観測を行うことは観測的宇宙論の主要な研究課題の一つである。

宇宙定数はアルベルト・アインシュタインによって、静的な宇宙を表すような場の方程式の定常解を得るための方法として最初に提案された(つまり、実質的にダークエネルギーを重力と釣り合わせるために用いた)。しかし後に、アインシュタインの静的宇宙は、局所的な非一様性が存在すると最後には宇宙スケールで膨張または収縮が暴走的に起こるため、実際には不安定であることが明らかになった。また、より重要な点として、エドウィン・ハッブルの観測によって、宇宙は膨張しており、静的ではありえないことが明らかになった。この発見の後、宇宙定数は歴史上の奇妙な存在としてほぼ無視されることとなった。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方


1970年代にはアラン・グースが、ごく初期の宇宙で宇宙定数が宇宙のインフレーションを起こした可能性を提案した。しかしインフレーションモデルが広く受け入れられた後でも、宇宙定数はごく初期の宇宙においてのみ重要であり、現在の宇宙とは無関係であると信じられていた。しかし、1990年代の終わりに人工衛星と望遠鏡の黄金時代を迎えると、遠方の超新星や宇宙背景放射を高い精度で測定することが可能になった。これらの観測で驚くべき結果が得られたが、これらの結果のうちのいくつかは、何らかの形でダークエネルギーが現在の宇宙に存在すると仮定すると最も簡単に説明できるものだった。

2009年06月08日

良心(りょうしん)とは、自身に内在する

良心(りょうしん)とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことである。

良心は、それ自体は規範意識などの情報の曖昧な総体であり、また善行をなし悪行を避ける心のことである。人間に関しては、性善説のように生まれながらにしてこの良心を持ち良いことを好み悪を嫌うとする説と、性悪説のように生まれた時点では良心は存在しないので教育によって良心を芽生えさせ育てる必要があるとする説があるが、そのいずれにしても社会に対しては、この良心に従って行動することが求められる。

特に良心の働きは個人的なものであり、これに従うことは自己に対する肯定感が増し、これに反すれば自己否定的になる。多くの場合で人間は自尊心の働きにも拠り、良心に反することを嫌う。また良心は普段無自覚である。
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良心自体は明確な価値観念ではなく、また信条のように条文化することも難しい。ただ、罪悪感のような自身の行為に対してネガティブ(否定的)な感情を抱く際には「良心が痛む」などの慣用句が用いられる。なおジークムント・フロイトは良心を無意識における抑圧構造の文化的な作用だとしている。

このような心の働きは、人が社会的動物として社会に関与する上で、自分の属する社会に益するよう働き掛けるものであるが、その働き具合は個人によってまちまちである。また正義や道徳が社会の価値観によってもまちまちであるように、この良心の向かう先も文化など他の要素にもよってやや異なる。

良心はときに他人に感化されて喚起したり、あるいは目の前の状況に精神的なショックを受け喚起される場合もある。逆に止むに止まれぬ事情により、この良心に反する行動を敢えて行う(緊急避難)場合もある。

これをテーマとする物語も多く、レ・ミゼラブルやクリスマス・キャロルのように我利的(自分の利益を最優先とし他人を省みないこと)な者が良心に目覚めたり、逆に羅生門のように平凡な男が良心を捨て悪道に走る物語もある。

2009年04月25日

国外支配地の経営

新王国時代のエジプトを特徴付けるのがシリア地方の支配である。第18王朝最初の王、イアフメス1世がヒクソスの支配権を引き継ぐ[13]という大義名分の下にこの地域に進出して以来、新王国時代を通じてシリア地方の情勢はエジプト王の主要な関心事であった。当時シリア地方には無数の小王国が分立していた。代表的なものを挙げればハラブ(アレッポ)、ウガリト、アララハ、アムル[14]、エブラ、カトナ、カデシュ、グブラ(ビブロス)、ダマスカス、ウルサリム(エルサレム)などである。エジプトのシリア支配は基本的にはこれらの諸王国に対し宗主権を認めさせ、一定額の貢納及び軍役を負わせることで支配を確立するものであった。この点については同じようにシリアの支配を目指したヒッタイトやミタンニも基本的に変わらない。エジプト、ヒッタイト、ミタンニの各国はシリアの支配権をめぐって激しく対立した。

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エジプトのシリア支配に転機が訪れたのはトトメス3世による遠征の時である。トトメス3世は17回に及ぶ遠征の際、征服した各地の王国から長子をエジプトに連れ帰り、テーベでエジプト式の教育を受けさせることとした。更にシリア地方に監督官(北の異国の長)をおいて現地の諸王国を管理させたが、後に以下の3つの州にわけられた。

カナン州(州都ガザ)
ウピ州(州都クミディ)
アムル州(州都シミュラ)
州都にはエジプトの監督官が駐屯したが、その居住地は現地の領主達の館があった土地ではなく、政治的には「中立」の土地が選ばれた。この支配はしばしば植民地支配とも呼ばれるが、駐屯するエジプト人は軍人を含めても少なく、シリアへのエジプト人の移住はほとんど見られなかった。

シリア地方の諸王国は基本的に自立の気風が強く、ことあるごとに反エジプト政策を展開した。ヒッタイトやミタンニの支配下にある諸王国も同じように反宗主国の活動を頻繁に行い、他の大国の勢力を導きいれようとしたため、シリアをめぐる戦争は大抵の場合、敵の支配下にある国の反乱と連動して攻撃をかける形で行われた。また、シリアの諸王国はお互いに対立の関係にあったため、エジプト王に対して隣国を批判し罰するように求める書簡を送ったりもしていた。

こうしたシリア地方諸国の行動を記録している史料は、アマルナ(アケトアテン)から見つかった外交書簡(アマルナ文書)やヒッタイトの記念碑文、ウガリトに残されていた外交書簡などがあるが、特にアマルナ文書によって精密に外交関係が復元できる時代をアマルナ時代と呼ぶ。さまざまな事件、戦争が記録されているが、以下にこの時代のシリア地方の動乱のうち幾つかを列挙する。

アメンヘテプ3世の時代、アムル州でアブディ・アシルタという男が権力を握り、シミュラをも支配下においた。エジプトはこれを黙認し、彼をシミュラの役所の「保護者」としたため、アブディ・アシルタは事実上の王国を築き上げた。これに対しグブラ(ビュブロス)の王リブ・アッディがアブディ・アシルタ討伐を求めた。しかしエジプトの救援はなく、アブディ・アシルタの後継者アジルの攻撃を受けてリブ・アッディはビルタ(ベイルート)へと亡命した。
ヒッタイト王スッピルリウマ1世はミタンニの支配下にあったハラブ(アレッポ)、カトナやアララハを攻撃し、ほとんど抵抗を受けずにこれを制圧した。カデシュ王アイタカマだけは毅然としてヒッタイトに立ち向かったものの、結局破れヒッタイトに連れ去られた。その後彼はヒッタイトの臣下としてカデシュ王に封じられた。
アムル王アジルはヒッタイトがシリアに進軍するとその覇権を認めて傘下に入ったが、ヒッタイト軍が撤退するとエジプトの宮廷を訪れエジプトの臣下という肩書きを得て帰国した。エジプトはこれに自信を強め、ヒッタイトの支配下に収まっていたカデシュを攻撃したが、ヒッタイト側の反撃にあってエジプト軍が撃退されるとアジルは再びヒッタイトに臣従した。
しばらく後、ウガリト王アンミスタムル2世はアムル王ベンテシナの娘を妃として娶っていたが、両国の対立に伴いアンミスタムル2世はこの娘を疎んじ、離婚した。このため両者の間に生まれていた王子ウトリシャッルマを巡って王位継承問題が生じた。しかしこのウガリト、アムル両国はともにヒッタイトの宗主権下にあったため、ヒッタイト王トゥトハリヤ4世とヒッタイトの王子でカルケミシュ王、及びシリア地方におけるヒッタイトの副王だったイニ・テシュプが離婚問題に介入し、ウトリシャッルマが王位を継承した場合と継承しなかった場合の相続の仕方を定めた。
アムル王ベンテシナはエジプト王ラムセス2世が軍勢を率いてシリア地方へ進軍するとヒッタイトに反旗を翻してエジプト軍とともに戦った。しかしカデシュの戦いの結果エジプトの進撃が止まるとヒッタイトの手によって廃位された。
こうした記録は枚挙に暇が無いが、これだけを見ても当時のシリアを巡る混乱した情勢を見て取ることができる。ただしこれらの事件の正確な時期は必ずしも明らかではなく、時系列順に並べることができない事件も多数ある。

エジプトのシリア支配は前進と後退を繰り返したが、やがてヒッタイトとの間に平和条約が結ばれるとやや安定した。しかし前12世紀末頃の「海の民」の移動に伴ってシリア地方が再び混乱すると、実質的な支配権は後退した。そして新王国時代末期には遂にエジプトのシリア支配は終焉を迎えることになる。

2009年04月07日

コラール

コラール(Chorale)はもともとルター派教会にて全会衆によって歌われるための賛美歌である。現代では、これらの賛美歌の典型的な形式や、類似した性格をもつ作品をも含めて呼ぶことが多い。

コラールの旋律は多くの場合単純で、歌うのが容易である。これはもともと、専門の合唱団ではなく、教会に集まった人々が歌うものとして考えられていたからである。一般に韻を踏んだ詞を持ち、有節形式(同じ旋律に歌詞の違う節をあてて繰り返す形式)で書かれている。歌詞の各連のなかでは、ほとんどのコラールがドイツのバール形式としてもしられる、A-A-Bの旋律パターンをとっている。

マルティン・ルターは、教会でラテン語ではなくドイツ語を用いるべきであると主張した。そのためには、新しいコラール作品が、早急に、また大量に必要であった。ルターは自らも神はわがやぐら(独:Ein' feste Burg ist unser Gott)を代表とするいくつかのコラールを作曲している。またカトリック教会で用いられていたグレゴリオ聖歌にドイツ語の新しい歌詞をあてた転用も行った。その代表的な例は、カトリック教会で復活祭に用いられるセクエンツィアの一つヴィクティマエ・パスカリ・ラウデスを転用したキリストは死の縄目につながれたり(Christ lag in Todesbanden、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータBWV4に用いられる)である。他に新しく書かれたコラールもあり、ヨハネス・クリューガーらは1600曲以上の旋律を作曲した。

初期のコラールはモノフォニー(旋律のみ)で書かれていたが、はやくも1524年にはヨハン・ヴァルターによって4声もしくは5声に編曲されたコラール集が出版されている。

今日では、多くのルター派のコラールがプロテスタントの教会で用いられる4声の賛美歌として親しまれている。その和声づけは、しばしばヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータの最後に歌われるコラールからとられている。バッハは自らコラールの旋律を作曲せず、教会の会衆がすでになじんでいるコラールを用いてカンタータを作曲した。

コラールの旋律は、賛美歌としてコラールが歌われる直前に演奏されるためのコラール前奏曲にも用いられている。コラール前奏曲にはコラールの旋律が登場し、そこに対旋律が加えられていく。

コラールは、ドイツバロック音楽を中心にさまざまな音楽の形式にて用いられた。アントン・ブルックナーは、音楽の神学的要素に傾倒し、またバッハのコラール前奏曲に影響を受けて、交響曲、ミサ曲、モテットにコラールを多用している。

イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア


2009年03月23日

キ1・キ2

キ1・キ2
1913年(大正2年)11月、汽車製造製の蒸気動車。特等・並等合造車となっている。1913年から翌年にかけてメーカーから借り受ける形で試験運行したが、購入に至らなかった。メーカー返却後、機関部分を外してB型蒸気機関車とし、残った車体は整備の上、1916年(大正5年)に樺太庁鉄道が購入してフホロハ1、2となった。
キハ2000形(2001?2003)
1933年(昭和8年)、日本車輌製造東京支店製のガソリン動車。鉄道省編入後はキハニ2000形となった。
キハ2100形(2101?2104)
1935年(昭和10年)、1936年(昭和11年)、日本車輌製造東京支店製のガソリン動車。車体長18m旧で、端面が流線型となり、運転台前の窓ガラスには旋回窓が装備されている。鉄道省編入後はキハニ2100形となった。
キハ2200形(2201,2202)
樺太鉄道が、1936年に汽車製造東京支店で製作したガソリン動車。車体長は15m級の小型車。1941年の買収によりキハ2200形となった。鉄道省編入後は、キハニ2200形に改称された。
キハ2300形(2301)
樺太鉄道が、1936年汽車製造東京支店で製作したガソリン動車。樺太庁鉄道キハ2104とほぼ同形で、樺太鉄道の買収により本形式となった。鉄道省編入後はキハニ2300形に改称された。
買収気動車#樺太庁鉄道移管車も参照のこと。

客車 [編集]
樺太庁鉄道の客車は、初期には北海道炭礦鉄道引継ぎの小型ボギー車が鉄道省から移管された。そのため最初期から自動連結器が使用されたが、連結器の高さは低いまま使用され、これが標準となった。また空気制動機を装備したものもあったが、入線時に真空式制動機に改められた。等級は三等級制であった内地の鉄道と異なり、特等・並等の二等級制であった。

二軸車 [編集]
ロ50形(50,51)←ロ1,2
1912年9月入線。1907年鉄道院新橋工場製ロ775形(帝国鉄道庁ヨニ8,9)。
フハ120形(ハフ120?127)←フハ1?8
1912年9月入線。1903年天野工場製フハ3434形(3434?3441)。旧北海道鉄道ハ7?14。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

旧北海道炭礦鉄道の木製小型二軸ボギー車 [編集]
北海道炭礦鉄道の客車も参照のこと。

フコロハ280形(280)←フコロハ1←鉄道院フコロハ5970形(5970)←北海道炭礦鉄道にさ35
フコロハ282形(282)←フコロハ2←鉄道院フコロハ5970形(5971)←北海道炭礦鉄道にさ36
1910年(明治43年)9月入線。1899年(明治29年)6月北海道炭礦鉄道手宮工場製。フコロハ1は特等と並等の仕切り部に便所を設けたため、形式が分けられた。
フコヤ290形(290)←フコハニ290形(290)←フコロハ214形(214)←フコロハ3←鉄道院フコロハ5975形(5975)←北海道炭礦鉄道にさ37
1910年(明治43年)9月入線。1899年(明治29年)6月北海道炭礦鉄道手宮工場製。屋根形状が特等室はモニター型、並等室が丸屋根と異なっていた。1928年(昭和3年)3月、豊原工場で特等室を荷物室に改造、さらに職用車に転用された。
フコロハ216形(216,217)←フコロハ4,5←鉄道院フコロハ5967形(5967,5968)←北海道炭礦鉄道にさ33,34
1910年(大正9年)7月入線。1897年・1898年北海道炭礦鉄道手宮工場製。屋根形状が特等室はモニター型、並等室が丸屋根と異なっていた。
フコハ265形(265)←フコロハ220形(220)←フコロハ6←鉄道院フコロハ5965形(5966)←北海道炭礦鉄道にさ31
フコロハ220形(221)←フコロハ7←鉄道院フコロハ5965形(5966)←北海道炭礦鉄道にさ32
1910年7月入線。1896年・1897年北海道炭礦鉄道手宮工場製。屋根形状が特等室はモニター型、並等室が丸屋根と異なっていた。フコロハ220は1928年7月豊原工場で全室並等車に改造された。
フコハ250形(250?253)←フコハ1?4←鉄道院フコハ7925形(7295?7939の一部)←北海道炭礦鉄道にさ?
1910年7月入線。丸屋根の全室並等車。
フコハ240形(240)←フコロ200形(200)←フコロ5673←鉄道院フコロ5672形(5673)←フコイロ5410形(5411)←北海道炭礦鉄道いに4
1924年1月入線。1891年北海道炭礦鉄道手宮工場製。1934年、並等車に改造。
フコロ205(205)←フコロ5675←鉄道院フコロ5675形(5675)←北海道炭礦鉄道に5
1924年1月入線。北海道炭礦鉄道手宮工場製。
フコロハ224形(224)←フコロハ5754←鉄道院フコロハ5750形(5754)←フコイロ5420形(5421)←北海道炭礦鉄道いに6
1924年1月入線。1897年、北海道炭礦鉄道手宮工場製。
フコロハ234形(234)←フコロハ5978←鉄道院フコロハ5975形(5978)←北海道炭礦鉄道にさ49
1924年1月入線。1898年、北海道炭礦鉄道手宮工場製。
フコハ250形(254?256)←フコハ7929,7030,7936←鉄道院フコハ7925形(7929,7030,7936)←北海道炭礦鉄道さ5,6,16
1924年1月入線。1887年?1893年、北海道炭礦鉄道手宮工場製。
フコロハ224形(225?228)←鉄道省フコロハ5750形(5750?5753,5755のうち4両)
フコロハ230形(230,231)←鉄道省フコロハ5760形(5760?5762うち2両)
フコロハ236形(236,237)←鉄道省フコロハ5975形(5775?5777うち2両)
1924年10月に1両、1925年8月に7両入線。いずれも北海道炭礦鉄道引継ぎ車。
フコハ250形(257?259)←鉄道省フコハ7925形のうち3両
フコハ260形(260)←鉄道省フコハ7940形(7940,7941のいずれか)
フコハ270形(270?277)←鉄道省フコハ7945形(7945,7946,7949,7951,7952,7955,7957,7958,7961のうち3両)
フコハ280形(280?285)←鉄道省フコハ7970形(7970,7971,7973?7976のうち5両)
1924年10月に4両、1925年8月に13両入線。いずれも北海道炭礦鉄道引継ぎ車。

雑形木製二軸ボギー車 [編集]
フホロハ320形(320)←フホロハ390形(390)←フホロハ380形(380)←フホロハ1
フホハ340形(340)←フホハ540形(540)←フホハ1←フホロハ2
1916年入線。1913年から翌年にかけて樺太庁鉄道が使用した蒸気動車から機関部を除いた車体を客車として購入したもの。

中型木製二軸ボギー車 [編集]
ホロ340形(340)←ホトク300形(300)←ホロハ1
ホロハフ395形(395)←ホロハフ390形(390)←ホロハ2
1922年汽車製造東京支店製の二軸ボギー式中型木製客車。鉄道院の標準型客車ホロハ22300形にほぼ同等。ホロハ1は1925年の昭和天皇(当時は摂政宮)樺太行啓の際に御乗用とされ、改番後は特別車となった。
ホロ310形(310)←ホロ340形(340)←ホハフ1
ホハフ350形(350?352)←ホハフ550形(550?552)←ホハフ2?4
1922年7月入線。同年汽車製造東京支店製の二軸ボギー式中型木製客車。鉄道院の標準型客車ホハフ25200形にほぼ同等。ホハフ1は、1925年摂政宮行啓時に二等車に改造された。
ホハニ360形(360)←ホハニ570形(570)←ホハニ1
1922年7月入線。同年汽車製造東京支店製の二軸ボギー式中型木製客車。鉄道院の標準型客車ホハニ26750形にほぼ同等。

大型木製二軸ボギー車 [編集]
ナロハ1120形(1120)←ナロハ370形(370)
フナロハ1180形(1180?1185)←フナロハ410形(410?415)←ナロハ370形(371?376)
370?373は1928年8月、374?376は1929年8月入線。いずれも汽車製造東京支店製。鉄道省の大型二軸ボギー客車と同等。
ナハ1220形(1220,1221)←ナハ520形(520,521)
ナロ1000形(1000)←ナロ350形(350)←ナハ520形(522)
フナハ1250形(1250)←フナハ545形(545)←ナハ520形(523)
ナロハ1100形(1100)←ナロハ360形(360)←ナハ520形(524)
フナロハ1200形(1200)←フナロハ420形(420)←ナハ520形(525)
520?522は1928年8月、523?525は1929年8月入線。いずれも汽車製造東京支店製。
ナハフ1280形(1280?1282)←ナハフ560形(560?562)
1928年9月入線。汽車製造東京支店製。
ナハニ1350形(1350,1351)←ナハニ580形(580,582)
ナハニ1400形(1400)←ナハニ590形(590)←ナハニ580形(581)
ナハニ1420形(1420)←ナハニ591形(591)←ナハニ580形(583)
ナハニ1380形(1380,1381)←ナハニ580形(584?586)
580,581は1928年8月、582,583は1929年9月、584?586は1930年11月入線。いずれも汽車製造東京支店製。
ナロハ1150形(1150,1151)←ナロハ380形(381,382)
1930年11月入線。汽車製造東京支店製。
ナハフ1260形(1260?1264)←ナハフ555形(555?559)←ナハ530形(530?534)
1930年11月入線。汽車製造東京支店製。
ナハフ1255形(1255)←ナハフ546形(546)←ナハフ565形(565)
ナハフ1300形(1300)←ナハフ565形(566)
1930年11月入線。汽車製造東京支店製。

半鋼製大型二軸ボギー客車 [編集]
オロハ2500形(2501?2503)
1938年3月日本車輌製造製の二・三等合造客車。全長は19mで、三等室の側窓は3個一組になったやや古い形態であった。
スハフ2600形(2601?2604)
1938年3月汽車製造東京支店製の三等緩急客車。こちらの車体は20m級で、鉄道省のスハフ34400形(後のスハフ32形)とほぼ同形であった。
スハ2650形(2651?2655)
1943年日本車輌製造東京支社製の三等客車。鉄道省のスハ32形と同形である。樺太庁鉄道が発注したものであるが、落成時には鉄道省に編入されており、樺太には送られず内地で樺太庁鉄道の番号のまま使用された。1949年、正式に日本国有鉄道に車籍編入され、スハ32形(869?873)となった。

2009年03月08日

金本位制の再開と機能停止

政治面で、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制によって、世界が一つにまとまっていく過程を追うことができるが、経済面でも世界が一つにまとまっていった。1816年のイギリスの貨幣法でソブリン金貨が発行されて以来、金と貨幣が兌換できる貨幣制度が全世界に波及していった。この制度を金本位制と呼ぶ。

イギリスで始まったこの貨幣制度に対しては、欧米各国(オランダは1818年、ポルトガルは1854年、ドイツは1871年、アメリカ合衆国、ベルギー、イタリア、スイス、フランスは1873年、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンは1875年、スペインは1876年、オーストリアは1879年、ロシアは1893年)が追随した。日本は明治維新直後の1871年に新貨条例を定めて金本位制に参加しようとしたが、当時の経済基盤は貧弱であり、銀本位制に変更、日清戦争後にようやく、金本位制に復帰した。

世界を一つにまとめる貨幣制度として、金本位制は機能していたが、第一次世界大戦によって、各国は金本位制を中断する措置をとった。1919年、アメリカ合衆国を皮切りに各国が金と貨幣の兌換を再開するが、世界恐慌の発生により、金本位制から離脱する国々が相次いだ。金本位制を巡っては、関東大震災により復帰のタイミングを逸した日本が暗黒の木曜日直後に金輸出を再開したことから政変に発展する事態となった。

1920年代の欧米社会と日本
大衆民主主義・婦人解放の前進とファシズムのめばえ
総力戦を戦うなかで、各国政府は全国民に戦争遂行への協力を要求した。そのため、戦後になると、戦時中の公約にしたがって、女性をふくむ参政権の大幅な拡大が多くの国で実現した。大戦前に婦人参政権のあった国はニュージーランド、オーストラリア、フィンランド、ノルウェーの4か国にすぎなかったが、大戦後は戦争における女性の貢献への報酬として、多くの国で参政権があたえられた。この時期には日本でも平塚らいてうや市川房枝を中心に婦人参政権運動が展開された。

また、社会主義国との対抗上、資本主義諸国も雇用を安定させ、福祉を充実させることが求められた。1923年、イギリスでは総選挙がおこなわれたが、政権党だった保守党が過半数に達せず、労働党のラムゼイ・マクドナルドが政府不信任動議を出し、自由党の閣外協力を得て初めて組閣した。これによって、イギリス初の労働党内閣が誕生した。

アメリカの秘密結社KKKの集会(1923年)しかし一方では、主義・主張、人種や民族の違いを理由に暴力に訴える風潮もめばえてきた。

南アフリカのアパルトヘイト、オーストラリアの白豪主義に加え、アメリカ合衆国では白人の優越を説く秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)が1915年に再建され、その活動が再燃して20年代には数百万の白人が入会していた。また、1921年、米国連邦議会は俗に「移民割当法」(Quota Immigration Act)と称される法案を成立させ、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出し、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとした。なお、アメリカにおける日本人(日系人)の移民活動は日米紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年には、反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定めた第13条C項が追加され、いわゆる「排日移民法」がアメリカ合衆国連邦議会で成立した。

戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。経済危機も深刻で、ロシア革命の影響も受けて、ストライキや農民の土地闘争がひろがり、社会主義勢力が拡大した。

1919年、ベニート・ムッソリーニが、革命阻止、国粋主義の立場で「イタリア戦闘者ファッショ」を組織し、中産階級や資本家、地主層などの支持によって勢力を拡大して、1921年に政党ファシスト党を結成、1922年のローマ進軍によって政権をにぎった。ムッソリーニは1924年にはフィウーメを獲得し、1926年には社会党など他の政党を禁止し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世をはじめとするイタリア王室、軍部、財界などの支持を得て一党独裁の体制をととのえ、1927年にはアルバニアを保護国とし、強力な統制経済によって経済危機をのりこえようとした。

ファシズムにおける独裁は、資本主義の危機的状況に対応して現れたものであり、従来の独裁政治とは、大衆的な基盤を有する点で性質を異にしていた。

東欧諸国と民族問題
第一次世界大戦では、2つの多民族国家すなわちオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国がドイツとともに敗戦国となり、また、ロシア革命によってやはり多民族支配を行っていたロマノフ王朝のロシア帝国が滅んだ。

これによって3帝国(ドイツも含めれば4帝国)の支配していた東欧には一種の権力真空状態が生まれ、ウィルソンの提唱する民族自決主義の影響もあってパリ講和会議の結果、多くの独立国がここに生まれた。しかし、その国境線は、ドイツを包囲し、ソ連の影響力を封じ込めようとする連合国によって決められたため、いずれの国においても国内に少数民族を含み、民族間の争いが絶えなかった。二重帝国から独立したチェコスロヴァキアはドイツ系住民が多く居住するズデーテンを含み、ポーランドは旧ドイツ領とウクライナの一部を併合した。これらは、その後も複雑な民族問題を残すこととなった。

さらに、チェコスロヴァキアをのぞきいずれも農業国で、地主の力が強く、農民はまずしかった。農民の不満も大きく、政治は安定せず、ポーランドではユゼフ・ピウスツキ、オーストリアと分離したハンガリーではホルティ・ミクローシュ、南スラブ人王国の構想より生まれたユーゴスラヴィア王国ではアレクサンダル1世の軍事独裁政治がおこなわれた。

アメリカ合衆国の「永遠の繁栄」
フォード・モデルT(1923年)アメリカにとって1920年代は、これまでにない繁栄の時代だった。流れ作業とベルトコンベアなどの機械化とを組み合わせたアメリカ式の新生産方式を代表するフォード・モーターは、安価な乗用車を大量生産し、定期的モデルチェンジ・広告・割賦販売など大量販売方式を組み合わせて、電気洗濯機や電気掃除機など快適な家庭電化製品やラジオ・映画の普及とともに、大量消費を楽しむ新しい生活スタイル(アメリカン・ライフ)や大衆文化をうみだした。

20世紀はじめに南部でうまれたジャズは、1920年代には北部の白人社会で受容され、各地にジャズ・バンドがうまれた。また、ホームラン王ベーブ・ルースの活躍などに代表されるアメリカ大リーグ、パット・サリバン創作のフィリックスやミッキーマウスなどウォルト・ディズニー・カンパニー製作のアニメーション映画、水着スタイルの最初の美人コンテストなど、20年代は、こんにちのアメリカ文化の原型が多くつくられた時代だった。

この時代のアメリカの繁栄を象徴するものに上述のラジオがある。1920年にピッツバーグでラジオ放送が開始されると、ラジオ受信機は急速に普及した。大量生産により生産されたラジオの保有台数は1929年には1,000万台に達している。これを通じ、ジャズなどの新しい文化が普及した。のちに世界恐慌のさいに大統領となったフランクリン・ルーズベルトはラジオを用いた炉辺談話を行って直接国民に語りかけた。また、ラジオ放送を可能にした電波は軍事目的にも利用されることとなった。

アメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国にかわって世界経済の覇権を握り、国としても債務国から債権国に転じた。ニューヨークにはクライスラービルをはじめとする摩天楼(超高層ビル)が建てられた。この時代を「繁栄の20年代」「黄金の20年代」あるいは「永遠の繁栄」などと呼んでいる。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

その一方で、孤立主義をとるアメリカは国際連盟には加盟せず、国内でも保守的なムードが強まり、1921年にはサッコ・ヴァンゼッティ事件が起こってイタリア系移民労働者が逮捕され、先述したようにKKKの活動が活発化し、また、異文化をもちこむ移民を制限する法律や禁酒法が制定された。繁栄の20年代は、一面では「不寛容な20年代」でもあった。禁酒法によりノンアルコール飲料が注目を浴び、1919年アトランタで始まったコカ・コーラは売り上げをおおいに伸ばした。一方、酒の密造・密売によって巨利を得たアル・カポネなどのギャングが暗躍し、シカゴではギャングの抗争が最高潮に達した。

また、「永遠の繁栄」がうたわれながら、この時代のアメリカ農業は不況にあえぎ、作物が収穫できても利益が残らない「豊作貧乏」の状態に陥っていた。

2009年02月19日

モビルファイター

モビルファイターは、アニメ『機動武闘伝Gガンダム』に登場する、架空の兵器の分類の一つ。ガンダムファイト専用に開発されたモビルスーツ(あるいはモビルアーマー)のことを指す。略称はMF。

これまでのガンダムシリーズに登場してきたモビルスーツ(MS)は、戦闘機などの延長上にある操縦(コントロールスティックやフットバー等)にAIなどによる支援が加わったものであるのに対して、モビルファイターは搭乗者・ガンダムファイターの動きがそのままMSの動きに反映されるモビルトレースシステムという方法で操縦する。そのため、MFの関節構造などは限りなく人体構造に近いものになっている。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

また、MFは通常ガンダムファイト専用の機体として建造されるため、全てのMFはガンダムタイプである。

ガンダムファイト本戦に出場するMFには大会登録番号が与えられ、ガンダムファイト運営委員会によって管理される。登録番号の発行規則は以下の通り。

ゴッドガンダムの場合、「GF13-017NJII」の登録番号が与えられているが、これは「GF13」が「第13回ガンダムファイト」の出場機体であること、「017」は前回大会の順位、「NJ」は所属国家(この場合、ネオジャパン)、末尾の「II」が第13回大会のレギュレーションに則り、乗り換えが行われた2機目のガンダムであることを示している。

モビルトレースシステム
モビルトレースシステムはモビルファイターを制御する操縦系であり、搭乗者側は様々なセンサーを仕込まれたファイティングスーツを着込み、機体内部に乗り込む。システム側は搭乗者のスーツに仕込まれたセンサーから得られる様々な動きをトレースし、モーションキャプチャの様に、機体を搭乗者の動きのまま動かす。

機体構造や機械関係の知識等を深く理解していなくても直感的に操縦が可能であるため、モビルスーツの操縦に慣れた人物よりも格闘技等に精通した人物の方がより優れた動きを見せる事ができる。
第4回ガンダムファイトのネオエジプト代表モビルファイター(IVはローマ数字の4)。ガンダムファイターはダハール・ムハマンド。

ガンダムファイトにおいてネオエジプトは代々ファラオガンダムという名前で大会に参加してきたらしい。第3回大会で優勝したダハールが第4回大会で使用したのがファラオガンダムIV世である。第3回大会でも使用した機体とされるが、その際ファラオガンダムIII世(IIIはローマ数字の3)という登録名だったかは不明。第4回大会の決勝でサイ・サイシーの祖父、サイ・フェイロンのフェイロンガンダムに敗れ、ダハールも死亡してしまう。その後MF共々埋葬されていたが、DG細胞によって甦り、ファラオガンダムXIII世やサイ・サイシーを襲った。

第13回ガンダムファイトのネオポルトガル代表モビルファイター。ガンダムファイターはロマリオ・モニーニ。

ファイターのロマリオは相手の技をコピーするという戦い方を得意とし、運動性を高めた細身の四肢と内蔵兵器によって様々なガンダムファイターの技を再現することができる。彼は普段からピエロの扮装をしており機体もピエロの顔状の独楽形態(トップモード)に変形する機能を持っている。相手の油断を誘うためとされるが、偶然にもチボデーがピエロに対してトラウマをもっていたためガンダムマックスターを圧倒した。またバルーンビットによりガンダムローズにも勝利しており、シャッフル同盟の二人に対して互角以上に戦った実力者でもあると言える。

2009年02月03日

甲斐氏 (越前国、遠江国、尾張国)

越前などの守護代を務めた甲斐氏。佐野氏の一族とされ、出自は下野国であると思われるが、判然とはしていない。

甲斐氏は、室町幕府が成立し、斯波氏が越前守護となったころにその執事として入京した。甲斐教光が徐々に頭角を現し、娘を斯波義重(義教)に嫁がせて斯波義淳を生ませ、その立場を強固なものとした。また、甲斐将教は、越前・尾張・遠江の守護代となり、その後、甲斐氏が越前・遠江の両守護代職を世襲するようになる(尾張守護代は、織田氏が世襲するようになる)。甲斐将久の代となって最盛期となり、陪臣でありながら、将軍の出行を得られるほどにその家格は高かった。
ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ

しかし、長禄合戦直後の長禄3年8月12日、その将久が亡くなると、台頭著しい朝倉氏に特に越前で圧迫されるようになる。

応仁の乱で、甲斐氏は、西軍に与するが、同じく西軍にあった朝倉孝景の東軍寝返りにより、窮地に立たされる。最終的に甲斐氏は越前での基盤を失い、遠江についても隣国駿河の今川氏に圧迫され、歴史の表舞台から退場していく。

歴代当主
甲斐教光
甲斐将教
甲斐将久
甲斐敏光
甲斐信久

斯波氏
朝倉氏
菊池氏

甲斐氏 (肥後国、日向国)
肥後の菊池氏の一族。

鎌倉末期、菊池武房の子武本(武村とも)は一族の内紛から、甲斐国都留郡に逃れて住んだ。その子孫重村は、南北朝初期、足利尊氏に従って九州に下向し、甲斐氏を称した。しかし、南朝方の菊池武重に敗れて日向国縣(あがた)に土持氏を頼って逃れ、のち高千穂鞍岡に土着して同地の国人となった。

戦国時代、甲斐親宣は、永正14年(1517年)に前阿蘇大宮司惟豊を矢部浜の館に復させ、それにより地位を確立、肥後国阿蘇郡に戻り、阿蘇氏重臣として阿蘇氏を補佐した。

天文10年(1541年)、その子甲斐親直(甲斐宗運)が、島津氏に内通して阿蘇大宮司に背いた御船房行を益城郡の御船城に攻めて御船城主となり、以後、筆頭家老として軍事外交両面において阿蘇氏を支えた。以後、甲斐氏は肥後、日向、豊後、薩摩の各地に拡大した。

現在、甲斐姓は延岡市を中心に、宮崎県北部から大分県南部、熊本県にかけて非常に多く分布している。

歴代当主
甲斐親宣
甲斐親直(甲斐宗運)
甲斐親秀(甲斐宗立)

甲斐宗摂
菊池氏
土持氏
御船城
甲斐神社

甲斐庄(荘)氏(かいのしょうし/かいしょうし)は日本の氏族の一つ。

楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦織郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来する。楠木氏の一族ではあるが、室町時代に河内守護であった畠山氏に降伏し、その家臣となり、本領安堵された。その子孫として戦国時代前期に甲斐庄隆成、戦国時代後期に烏帽子形城城主でキリシタンであった甲斐庄兵右衛門正治の名が見える。正治は畠山家重臣で烏帽子形城城主であったが畠山氏没落に伴い、烏帽子形城を失い没落した。流浪したがいつの頃からかは定かではないが徳川家康に仕える。また、その子、甲斐庄喜右衛門正房も徳川家康に仕え、御家人として家名が存続した。大坂の陣では河内の地理に詳しいことから道案内をつとめ、加増を受けて旗本となった。一説によると、本能寺の変の際、堺から三河へ帰国する家康に同行した河内の土豪で、家康の警護をした恩賞として、旧領復帰(2,000石)と加増(2,000石)で4,000石の旗本になったともいう。正房の子、正述は長崎奉行をつとめ、その正述の子、飛騨守正親は勘定奉行、江戸南町奉行<在任期間:延宝8年(1680年)8月30日?元禄3年(1690年)12月3日>などをつとめるなど活躍した。

また、同族で別系統に能登甲斐庄氏があり、甲斐庄駿河守家繁が能登畠山氏重臣として見える。河内国の畠山氏からの分家である能登畠山氏に、甲斐庄氏からも分家した一族が従っていたものと思われる。甲斐庄飛騨守正親は「八百屋お七悲恋物語」にも登場する南町奉行、甲斐庄飛騨守と同一人物である。

また、同族として、旗本で美濃郡代(在任期間:天和3年(1683年)?貞享2年(1685年))をつとめた甲斐庄四郎左衛門正之がいる。正親が南町奉行在職中であるので、その兄弟ではないかと推測されるが断定はできない。

歴代
判明している人物を時系列で並べてあるが、必ずしも全てではない。

甲斐庄正治
甲斐庄正房
甲斐庄正述(普請奉行・長崎奉行)
甲斐庄正親(勘定奉行・南町奉行・浅野長武の舅)
甲斐庄正永
甲斐庄正恒
甲斐庄正壽
甲斐庄正里
甲斐庄正文
甲斐庄正博(帯刀・明治維新時の当主、旗本4,000石)
甲斐荘正秀 正博の養子となるが、後、離縁。
甲斐庄楠音 (かいのしょう・ただおと 1894年?1978年):大正・昭和期の著名な日本画家。正秀の三男。
甲斐荘楠香 京都大学卒、高砂香料工業株式会社の創業者。正秀の長男。
甲斐荘正興 楠香の子。

その他の甲斐庄(荘)氏の著名人
甲斐庄家繁 能登畠山氏家臣。駿河守。
甲斐莊正晃 株式会社KAINOSHO(旧社名:ケイブレイン株式会社)代表取締役、著書「インナーブランディング」。後述の甲斐荘泰生から改姓・改名。
甲斐荘正恒 東京都立大学理学研究科化学専攻教授、日本核磁気共鳴学会会長。
甲斐荘敬司 株式会社ジャパンエナジー精製技術センター主任研究員、共著「白色LED照明システム技術の応用と将来展望」。
甲斐荘博司 株式会社ジェイ・アイ・エム取締役。
甲斐荘泰生 株式会社日本総合研究所システムコンサルティング部上席主任研究員。著書「エージェント・システム―コンピュータ代理人社会のゆくえ」など。

2009年01月20日

競走はオリンピックや世界陸上選手権

(公式種目のみ〔【】内は非公式〕)

短距離走 - 【50メートル競走】、【60メートル競走】、100メートル競走、200メートル競走、【300メートル競走】、400メートル競走
中距離走 - 800メートル競走、【1000メートル競走】、1500メートル競走、【1マイル競走】、【2000メートル競走】、3000メートル競走
長距離走 - 5000メートル競走、10000メートル競走、【ハーフマラソン】、マラソン(42.195km)、【ウルトラマラソン】
リレー走 - 400メートルリレー走、【800メートルリレー走】、1600メートルリレー走(マイルリレー)、【3200メートルリレー走】、【6000メートルリレー走】、【スウェーデンリレー】
障害走 - 【60メートルハードル】(室内など)、100メートルハードル(女子)、110メートルハードル(男子)、【200メートルハードル】、【300メートルハードル】(マスターズ)、400メートルハードル、【2000メートル障害】、3000メートル障害
駅伝競走
競歩 - 【3000メートル競歩】(高校女子)、5000メートル競歩(高校男子)、【10000メートル競歩】、20000メートル競歩、【30000メートル競歩】、50000メートル競歩、【2時間競歩】、
跳躍競技 - 跳躍能力を競う競技
走高跳
棒高跳
走幅跳
三段跳
投てき競技 - 投てき能力を競う競技
砲丸投
円盤投
ハンマー投
やり投
ジャベリックスロー(中学)
混成競技
十種競技(男子) 、 八種競技(高校男子) 、七種競技(女子) 、四種競技(中学)、3種競技(小学)、【二十種競技】(男子)、【十四種競技】(女子)
上記の競技のうち、日本でもなじみのあるハーフマラソンや駅伝競走はオリンピックや世界陸上選手権には採用されていない。これはマラソン同様に陸上競技場の外、つまり公道をコースとせざるを得なく、更に男女別で分ける必要もあることから、公道での交通規制が増えすぎてしまい、警備への負担増加、規制による市民生活への影響などが大きいためとも考えられる。

[編集] 世界記録

[競技規則

計測・単位について
フィニッシュタイムの計測(トラック競技)
トルソー(ここでは頭、腕、足、手及び足を含まない部分を示す)がゴールラインをきった時点で走者のゴールとされる。
写真判定装置を用いる場合、10000メートル以下の競技では、1000分の1秒以下を100分の1秒に繰り上げる。10000メートルよりも長い競技では、100分の1秒以下を10分の1秒に繰り上げる。また、一部でも競技場外で行われるレースにおいては、10分の1秒以下を秒に繰り上げる。
手動計時の場合は、トラック種目の場合は100分の1秒以下を10分の1秒に繰り上げ、一部でも競技場外で行われるレースにおいては、10分の1秒以下を秒に繰り上げる。また、3個の時計のうち2個が一致する場合はそのタイムが記録となり、全て異なる場合は真ん中のタイムが記録となる。尚、時計が2つのときは遅いほうのタイムを記録とする。そのため、同じ着順の計時を複数名で担当する。
距離の単位(トラック競技)
基本的に競技場内で行われる競技はメートル、公道へ出る競技はキロメートルで表される。
距離の計測(フィールド競技)
センチメートル未満を切り捨て、センチメートル単位で記録する。

風速の測定
風速は、各種目下記の秒数計測し、100分の1メートル以下を10分の1メートルに切り上げる。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

60メートル スタートから5秒間
100メートル スタートから10秒間
200メートル 先頭の選手が直線に入ってから10秒間
100メートルハードル スタートから13秒間
110メートルハードル スタートから13秒間
走幅跳 踏み切り板から40メートル離れ、助走路のそばにあるマーク通過から5秒間で、競技者の助走が40メートル未満なら助走開始時から5秒間。
三段跳 踏み切り板から35メートル離れ、助走路のそばにあるマーク通過から5秒間で、競技者の助走が35メートル未満なら助走開始時から5秒間。
測定器はトラック競技の場合は1レーン側のトラックから2メートル以内のフィニッシュラインから50メートルところに設置し、フィールド競技の場合は踏み切り板から20メートルのところで、助走路から2メートル以内のところに設置する。また、トラック、フィールド共に1.22メートルのところで測定する。